対談 加茂川文 × 有川宏幸「私たちは“障害者”アートに、何を見る?!

 

二年前になりますが、アイスランドに調査旅行に行った時の話です。私たちの調査を全面的に支援してくださったアイスランド大学のドラ先生と昼食をとっている時のことです。ドラ先生は、インクルーシブ教育について研究をしています。

ドラ先生は、障害の有無は重要な問題ではないと度々話をされていました。そこで、私が抱いていた疑問を投げかけてみました。と言うのは、インクルーシブ教育と言えども、個別の支援を提供する際には、障害の有無についての議論は無視できないという現状が日本国内ではあったからです。

そして、今日、日本における議論の中心は、早期に障害を発見し、ただちに必要な支援を提供し二次障害を防ぐことが重要視されていることも話しました。そういう中で、日本におけるインクルーシブ教育の難しさも合わせて伝えたつもりです(もちろん通訳の方を通じてなのですが・・・)。ドラ先生はしばらく私の話を聞き、次第にとても神妙な顔になりました。私の話を一通り聞いて彼女が言ったのは「なんてことを!」でした。

そして彼女は、ノートに生起分布図を書き、それにバッテンを書き、「この話はもうおしまい」と・・・誰が見てもはっきりとわかる「怒り」の態度を示しました。後で通訳の方(アイスランド大学に留学している日本人女性です)に聞いた話ですが、ドラ先生と議論すると、「血まみれになる」そうです。私が学生の頃は、珍しい光景ではありませんし、実際、私も何度も切られたことがあります。もう少し時間があれば、私も血まみれになっていたのでしょうね、

 

さて、それ以来、私は「なぜ、彼女は正規分布図に×を付けたのか」と言うことを考えてみましたい。彼女を怒らせたことに対して、反省しているのではなく、日本で今当たり前のように言われている早期発見、早期対応の重要性を説く私の考え方に、全く疑問の余地はないものなのだろうかと言うことです。

いろいろと考えてみましたが、一つおもしろいことに気づきました。私たちが、子どもに支援の必要があるかどうかを見る時に、必ずすることがあります。

それは「診断基準に該当する状態にあるか」という確認です。そして「障害がある」と言うことが確認されれば、「支援の提供」へと次のコマへ進むシステムになっているということです。

しかし、よくよく考えてみれば、正規分布(つまり知能検査です)の頂点から、どれだけ離れているかという問題と、支援が必要か、あるいは支援を求めているかと言う「判断」の問題は、必ずしもイコールではないのです。小学校で問題が解けずに「う~ん」と唸っている子どもがいれば、普通は「何がわからないの?」と聞くのがあたりまえです。

となると、本来必要な事は、障害の早期発見ではなく、子どもを育てる上で「今、何かできることある?」「何をして欲しい?」と言う問いだけのはずなのです。なぜ「障害」があるか、ないかをそもそも問題にせねばならないのでしょうか?

現在の日本社会がおかれている大きな問題と深く関係しているとわたしは考えています。しかも、障害者の問題ではなく、私たち側に明らかにそうする必要があるからです。このことについては、いずれボイスジャーナルで話す予定です。

ということで、昨年度は「障害」というワードが持つ意味について、学生と一緒にいろいろと調べています。

今回は、障害者アートをテーマに、この問題について考えてみました。私たちは「障害」と言うワードを、どのようにとらえているのか、障害者アートと言うフィルターを使って実験をしてみました。

アートは、本来表現活動の一つです。と言うより、表現活動自体がアートです。しかし、そこに「障害」と言うワードが加わると、私たちは、これを単なる表現活動とは見ません。「障害者」の表現活動と見ます。しかも、なぜかこの表現活動を「障害者」がすれば、それは肯定的に評価される傾向が強くなります。

これは、一体何を意味しているのでしょうか。「○○高校の一年生が描きました」と言う情報が加わったからと言って、私たちはその表現活動に特別な意味を見出すことは通常はありません。ただ「へぇ・・・」で終わるのです。ですが「○○特別支援学校の生徒が描きました」と言う情報を目にすると、どうも私たちはその瞬間、「へぇ・・・」では済まさなくなります。なにか得体のしれない意味を、そこから見出そうとします。この「得体」の正体を私たちは、もう少し考えてみる必要がありそうです。しばらく、この研究は続けます。

ボイスジャーナルでは、この研究結果が意味する問題について話しています。

 

対談 加茂川文 × 有川宏幸「私たちは“障害者”アートに、何を見るの?!

 

ボイスジャーナルでは、この研究の裏話や苦労があった点について対談しています。また、この研究の紀要原稿はこちらです。