困った人たちの話をよく聞きます。対象は子どもから、大人まで。教師や保育者と子どもとの間で、あるいは同僚、夫婦までと様々です。

そして、私もその一人です。時に困った人になります。特定の会議や、研究会など率先して問題行動を起こすことがあるのです。対極的な意見を連発したり、批判的な発言を繰り返すのです。

 

こうした行動を自分なりに機能分析をすると、回避・逃避行動です。間違っても注意要求でもないし、環境の改善要求でもありません。単純に回避・逃避なので、あまりご迷惑をおかけしないようにするため、最近では参加拒否行動まで生起していますから、困ったものです・・・。幸い、ネガティブな環境に引き戻されることはなく、きっと近いうちに忘れ去られることでしょう。

 

扱いにくい人間を放っておいて忘れてくれると言うのは、助かります・・・。

 

でも、子ども達はそう言うわけには行きませんね・・・教師や親によって無理やりにでも戻されるでしょう。そうなると、最後は暴れるしかない。最後は困った子になるしかない。引き戻す事を止めはしませんが、どうせ、引き戻すならそうした行動に頼らない生き方を教えたいものです。

 

さて、最近、自分の研修を受けた方がいる保育園に、研修効果をモニターさせていただいていると言うことは、既にこのブログでもご紹介させていただきました。

 

行くたびに、いろいろと考えることがあり実に多くの学びが得られます。今日の学びは、保育者にとっての子どもの「問題」についてです。

 

保育士に限らず、教員、施設関係者に共通することとして、行動コンサルテーションが施設全体に行きわたるかは、各施設で抱える問題の大きさもありますが、それ以上に施設長の問題改善における考え方によるところが大きいと言われています。

 

昨年度行った施設職員のための連続研修に、ある施設からオブザーバーとして参加していた方がおりました。

 

オブザーバーというのは、要は表立って参加できない事情を抱え正式に仲間に入れてもらえないと言う位置づけでした。まぁ、施設長が積極的に研修参加を了承してくれなかったのがその理由なのですが・・・。

 

私は、あまり細かいことは気にしませんし、同じ学びの場にいるのにオブザーバーなどと言う位置づけで、学びの輪から外れている状態の方が気味が悪いので、普通に参加してもらいました。もちろん、同じカリキュラムを受けてもらいましたし、それに伴う施設内の実践にも普通に取り組んでもらいました。

 

表向きオブザーバーのその方は、自分が学んだことをそのまま施設で実践していました。その甲斐あってか、最終的には施設長から「一体、その行動分析とやらはなんなんだ」ということになり、今年に入って施設全体で実践することになりました。

成果としては良好な結果が得られ、いまでは法人全体での取り組みにまで般化しています。

 

何度か私も、スーパーバイズに入っていますが、その時に施設長から言われたのは「オペラント心理学のように思えるのだが、実際のところどうなのですか。私は、調教みたいなことは嫌なのですが、どうもそれとは違うみたいだ」との素朴な疑問をもらいました。

 

私としては正直に、「オペラントです」とお答えしました。そして「テクノロジーは、よい使い方も、悪い使い方もあります。利用者さんの生活の質を高めるために使用すれば、それは良いテクノロジーですし、自分たちの都合のよいように使えば、それは悪いテクノロジーです」とお答えしました。

 

私は、テクノロジーは使う側の「思想」がとても重要な問題なのではないかと考えています。最近では、行動分析に関わる書物も本当に増え、誰もがその気になればこの学問を学ぶことが出来ます。もちろん、技術的な点においては、いわゆる「技法」というところまで落とし込んで伝えられている書物も目にするようになりました。専門書しかなかった私の学生時代とは随分と変わってきました。これはこれでとても喜ばしいと思っています。でも、「思想」はどのように伝えていけばよいのでしょうか。

 

これはなかなか難しい。

 

一般的に私たちは「問題」に遭遇すれば、その「問題」を改善しようと試みます。理由は簡単です。まずはその「問題」を回避したいと考えるからです。

 

そして「問題」が無くなることにより、行動分析学に基づくアプローチの実践は「強化」されていきます。したがって、さらに新たな「問題」に対して、このテクノロジーにより対応しようと試みます。つまり「問題」へのアプローチ行動は般化・維持していく事になるのです。

 

では、生活の質の向上へのアプローチはどうなってしまったのでしょうか・・・。

 

これまでも生活の質の向上への移行に、私は成功したり、失敗したりと不安定です。自分なりに方法論を確立していないため、依然として迷走状態なのです。先ほどの施設長のように「調教の様な事は嫌だ」と考えていてくれている人が、このテクノロジーに関心を示せば、それは極めてポジティブなものとして普及していきます。

 

でも、ひどい時には「誰が、どんなことをしても改善できなかった問題が、すっかりなくなってよかった」と言い残し、それ以上のアプローチを試みない施設や園は依然として多く存在します。そのたびに自分の無力さを知ります。

 

それでも今日伺った保育園では、大きな学びを得ました。この園は、昨年度に既に行動分析学に基づくアプローチにより、様々な問題が改善していた子どもが、この四月から困った行動を頻発するようになりました。

 

体制が大きく変わったため、対応もちぐはぐになり、子どもが混乱したことが理由でした。行動の原理に立ち返り、改めて保育内容や対応の一貫性を検討しました(昨年度既に研修を受けている人材がいたので、もちろん自分たちで解決させましたが・・・)。

 

おかげで、「問題」は改善していきました。さらに私がこの園に望んだのは、他の職員へのテクノロジーの拡大です。今回のモニターは孫世代(つまり、研修を受けた職員が所属する保育所の他の職員)への拡がりでしたが、この夏はさらに曾孫世代(研修を受けた職員が所属する保育園の、他の職員が、このテクノロジーを知らない他の職員へ伝える)へと拡大していきました。これも見事にアプローチの世代間連鎖が起こっていました(どうしても段階的に分析がゆるくなる傾向は否めませんが・・・)。

 

ただ、一つの課題が残っていたのは、「いつまでも、問題を追い続ける」ことでした。

これまでの経過から、保育士は「問題」の改善に対して「強化」されています。つまり、いつまでたっても「問題」への対応であり、「生活の質の向上」へのアプローチにはなかなか派生していきません。

 

「今回も、うまく行かなかった・・・」。

 

そう思っていた矢先に、孫世代の保育士が「他の問題行動の対応検討も考えたのですが、よくよく考えてみたら、この年齢だったら、他の子どもでもやっている行動だったんですよね・・・」とポツリ。

発達的課題がうまくリンクしていました。自分自身が、行動論を学んだ後に、発達の知識をたたき込まれているので、この関係は切っても切れないものだと思っています。でも最近、そうした視点が保育園であっても希薄になる傾向があると感じています。なので、「問題」と「発達課題」の関係がうまく読み取れていない保育士も実は多くいます。

 

私たちは、誰もが失敗しますし、時には「問題」も起こします(先ほども述べましたが、私は結構、あちこちで問題を起こしております)。でも、それは人が成長する姿の一つとしての捉え方も必要なのです。時に反抗して手を焼きます。もちろん、それに対して私たちは抵抗しようとします。でも、それも反抗期と言うラベルのもとで、「しょうがないな~」と認知し、時には静観したり、積極的に介入を試みます。おそらくは、「程度」という最小公倍数化、あるいは最大公約数による指標の基にその判断をしています。

 

でも小さいころから「問題」の多い、いわゆる障害を持つ子ども達に対しては、どうも根本的にこの視点が欠落しています。つまり、そもそもの指標が異なると認知される傾向があります。そして彼らのすることは、何もかも改善しようと試みます。なので、次から次へと「問題」を探し続け、対応し続けます。

 

でも、本当にそんなに「問題」だらけなのでしょうか。

 

たまにはうまく行かないこともありますし、意外とそれは誰もがやっていることの場合もあります(もちろん程度の違いはありますが)。

何もかも消していくのでは、いつになったら「生活の質を高める」ための実践へと移行できるのでしょう。もしかしたら、「それって、誰もがやっているじゃない」と言うことを通じて、だから「障害のある子ども達だけの問題ではないよね」と言う、まさに一般化してものを考える視点の転換は、この移行には重要なのではないかと思います。

 

「障害のある子どもとしてどう育てたいか」の前に、「人としてどう育てていきたいか、どう幸せな生活を送ってもらいたいか」なのではないかと思います。

 

私は「問題」をなくすことが、障害の克服になるなどとはまったく思いません。「問題」の中で、どう成長させたいかという視点こそが重要だと思っています。

 

なぜなら、障害の無い子だって「それ」をやっているからです。

この視点の持ち方は常に持つべきなのではないかと思います。「他の子」の育ちの道すじに気づき、時に、「みんなもそんなところあるよね」と考え、だからこそ「こうなってもらいたいよね」「こう育ってほしいよね」がある。

その先には、「人に迷惑をかけず、人生を楽しんでもらいたいよね」・・・そんなことに繋がっていくのではないかと思っています。

 

さて、私が回避・逃避したお仕事なのですが・・・どうも、私一人が欠けたところで普通に、なにごともなかったように回っているようです。もしかしたら、もともと誰もが適当にやっているお仕事なのかもしれません。

 

いやいや、そんなことはありません。やはり忘れられていくのです。社会の厳しさは、きっとこういうことを言うのでしょうから・・・。