特集の第三回です。今回は、教育と合理的配慮について話をしています。

障害者差別解消法の施行に伴い、公的機関においては合理的配慮をしないことが差別にあたります。つまり公立学校には、合理的配慮が義務づけられています。

ある研修会で、障害者差別解消法について話をした後で、主催者の方と話をしていた時のことです。

『「合理的配慮」って、バリアフリーのことを言うと聞いていたのですが、今日の話ではちょっと違う印象を受けました」と感想を話されました。結果的には、バリアフリー(「アクセシビリティ」の方が用語としては適切だと想いますが・・・)になっていくのだと思いますが、やはりそこには個人の持つ「権利」についての「対話」というプロセスが必ずあることが重要だと私は考えています。

「とりあえずスロープやエレベーターを作ればよい」という発想のものでは必ずしもありません。

この特集で何度も、話題になるのですが、「合理的配慮」は当事者の権利の行使に対して、初めて議論される類いのものであり、周囲があれこれ勝手に決めるべきものではないと私は考えています。

ましてや、障害のないものに保障されている権利が、「体制面、財政面において」はじめから上限が設けられているともとられかねない「文部科学省の言う合理的配慮」の考え方に対して、私はとても違和感を感じています。

現に『「財政面、体制面において、均衡を失した又は過度の負担を課さないもの」と言われているので、とりあえず学校としては助かる。出来ないものはできませんから』と話していた校長もおりました。私はこの考え方にははっきり「そんな都合のよい話にはならないと思いますよ、公立の学校なのですから。権利の行使を求めている人が、お金がないので出来ませんと言う説明で、納得するとはとうてい思えません」と苦言を呈したことがあります。

少なくとも、「お金がないから出来ない」でなく、「お金がないけど、できる工夫」に知恵を出すべきです。今の日本、どこもお金がないのです。こんなことを「合理的配慮」をしない理由にしていてはいけません。

この私の考え方について、弁護士の小出薫さんと話をしています。

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